「私の仕事歴・1
私は、1992年に結婚し、1993・1995年と2人娘を出産し育ててきました。
けして自慢出来る子育てだったとはいえません。
1999年にマンションを購入し、今の住居にいます。
しかし、その1年後、主人がリストラに合い、お給料も激減してしまいました。
小2・小1の娘を置き仕事をすることにしました。
でも、娘たちの学校の行事や子ども会の役員などけして手を抜きませんでした。
下娘が小2・高3の時に学級委員、上娘が小5・中2・中3と学級委員(中2の時は学級委員長)までこなしました。子ども会の役員も率先して活動しました。
今の保護者は知りませんが、理由をつけて役員をやりたがらないですね。
考えは古いかも知れないけど、子どもが世話になっているのに、遊びに行ったり、
体育祭で盛り上がったり、御神輿を作ったりと大変だったけど、家族の話題になったし、けしてマイナスではなかったです。
私が子どもの頃は、父親が子ども会の副会長や会長をしていたことがありました。
普段はどこにも連れてくれない父が子どもや保護者を束ねて活動する姿にほこらしかったです。
私も子どもができたら、先生や周りに頼らず、参加したいと思いました。
仕事をしていて、助かったのは、誰かが見てくれていたってことなんですよ。
もし、習い事ばかりさせて、家からも出さず、子ども会や自治会などに参加させていなかったら、見てくれていなかった気がします。
娘たちは土曜日がゆとり教育世代なので休みで地域の人と遊んだり学んだりする行事に参加していました。私も主人も仕事の時、助かっていました。
だからなのか?道を歩いてても娘たちの方が近所のおじいちゃん、おばあちゃんに声かけられるんです。
当時は、マンションの管理人さんも巡回の時に見てくれていました。
仕事をしていてもなんか?児童会に入れることなく生活していたので、いいなぁと思いました。でもこの頃小学生を狙った犯罪もひどかったのを思い出しました。
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話は変わって、仕事歴の話をしましょう?
私は結婚する前に紳士服製造会社に行っていました。
しかし、私は洋裁学校を出ていたはずなのに、縫う仕事はどうしても嫌でした。
入社して、研修の時も布を切る(裁断課)行きたいと希望をだして内定までもらっていました。裁断課の課長も喜んで迎えてくれていました。
でも、正式に配属が決まる日に私の配属が変更されていたんです。裁断課の課長にも知らされないまま、私はオーダーメイドでジャケットを製造する課での配属でした。
決まっていた子が研修中にいじめに合いやめてしまって、私はなぜか?3課ぐらいに内定があったことを後日聞きました。しかし、泣きまくり19歳の娘は駄々をこねたけど通りませんでした。
ミシンで縫う仕事だったらまだしも、まつり縫いをミシンでする特殊ミシンにいかされ
、難しいのなんの辛くてならなかったです。
私が担当した前の人が妊婦で私に特殊ミシンをマスターさせないと辞めさせないと言われたといっていました。
一様、3ヶ月みっちり教えて、退社されました。
半年もたつと、おしゃべりしながら仕事も出来るようになりました。
妊婦さんが去った後に私の保護者に付いてくれたのが、会社1おしゃべりおばちゃんでした。
その人には、私と同じと年の娘さんとお姉ちゃんがいました。娘さんたちには、私の方が娘みたいやねって言われるほど仲がよかったです。何でも話せたし、結婚式のも参列してもらいました。泣いて喜んでくれました。
1~2年前に義理妹がその会社に勤めることがあったので話聞きました。
(義理妹は同僚で同期でした。妹は中学出て就職し、私は4年生の専修学校に行っていたので4年の年齢差はありますが)
毎日は来てないけど、たまに仕事してるっていってました。
同期では最初20ぐらいいてたんですが、現在1人しか残ってなかったと言ってました。
その子も当時、後輩で私の課にいた男の子と付き合っていたんです。
私、年下は対象外でしたし、お姉ちゃんみたいに扱われていたんです。
私が辞めて10年ぐらいで当時からいた普段からハーレーを乗り回している先輩がいたんです。気軽くしゃべってくれる人だったのですが、私の兄貴に雰囲気にていた人と、結婚して離婚して、現在も課は違っているみたいですが、同じ会社で働いているそうです。
なんかすごいって思ってしまいました。
私のことを覚えている人はその二人以外はいなかったようですが、出来ることならもう一度、仕事場の母に会いたいです。
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